境内案内
本堂
現本堂は江戸時代後期の弘化4年(1847)、当山第40世日深上人によって再建されたものです。
この時に堂内の諸仏諸尊も新調されました。
内陣正面には御本尊が安置されております。
上段には「一尊両尊四士」の御本尊を奉安し、中段には三光天子、文殊菩薩、普賢菩薩、不動明王、愛染明王を、下段には日蓮大聖人、開山の日像上人、開基の乗純妙文上人の御尊像が安置されております。
また、東西南北の四隅には四天王像が配置されております。
これらの御尊像は金沢の大仏師、松井乗運の作であることが判明しております。
内陣左側には、七面大明神、鬼子母神、十羅刹女、大黒天、摩耶夫人が安置されております。
本堂左手前には、当山の開山である日像上人の「御法難の立像」が安置されております。
その右に当山開基の祐乗上人(加賀太郎)の膝位像、左に道乗上人(北太郎)の立像が安置されております。
この3体の御尊像の制作年代および作者は不明ですが、永仁2年(1294)に日像上人が当地にて御法難に遭われた当時のお姿を今日に伝えております。
位牌堂
本堂奥に位牌堂があります。
昭和31年(1956)、第48世日英上人の代に「開山堂兼位牌堂」として建立されました。
当初は開山の日像上人、開基の祐乗上人・道乗上人の御尊像を安置しておりましたが、 霊夢を受けて、開山上人、開基上人像は現在の場所に御遷座申し上げました。
正面右側には開基乗純和上を始め、当山歴代の御位牌を奉安し、 左側には当山の大檀越であった長家の位牌を始めとした永代供養の位牌、 そして戦死者の位牌をお祀りしております。
山門(仁王門)
当山の仁王門は、明治42年(1909)、当山第46世日貞上人の代に、当村の宮大工山森伊三郎(やまもり いさぶろう)が棟梁となって建立されました。
両脇に安置されている仁王尊像は、元々石動山天平寺の仁王門に安置されていたものを移転したものです。
江戸中期の制作と推定されており、文化財的価値のあるものとされております。
浄行堂
『法華経』従地涌出品には、大地が六種に振動し、その裂け目から無量の菩薩が出現する場面があります。
その菩薩たちの上首である上行(じょうぎょう)菩薩、無辺行(むへんぎょう)菩薩、 浄行(じょうぎょう)菩薩、安立行(あんりゅうぎょう)菩薩を「四菩薩(しぼさつ)」とお呼びしますが、 その内の浄行菩薩をお祀りしております。
古来より自分の身体の悪いところに相当する部分をお清め申し上げると治ると言い伝えられ、 「浄行さま」と呼ばれて地域の人々に親しまれてきました。
番神堂(報恩堂)
元和3年(1617)長連頼(ちょう つらより)公の御息女の眼病平癒の祈願満願成就の報恩のために寄進された建物で、 「報恩堂」と名付けられております。
現在は鞘堂によって覆われておりますが、番神堂の本体にあたる建物は杮葺き(こけらぶき)で、 400年という歳月の間にかなり風化が進んでしまっておりますが、往時の姿を今日に伝えております。
長家は加賀藩前田家の家老で、当地一円の守護職に就いており、当山へ寺領などを寄進した大檀越でした。
番神堂の左横には、連頼公とその奥方ならびに御息女の墓碑が現存します。当山の寺紋も長家の家門「長谷部紋」に由来します。
七面堂
当山の諸堂全体を見渡せる高台にある七面堂は、法華経末法総鎮護の守護神として知られる七面大明神をお祀りしております。
文政年間(1818~1830)、当山第36世日敬上人の代に建立されました。
お祀りされている七面大明神の御尊像はお堂の建立よりもさらに古く、第27世日近上人の代に奉安されました。
この御尊像は、春から秋にかけてこの堂宇に安置され、冬季は本堂内に安置されます。春、秋の2回御遷座式を厳修します。
客殿・書院
平成5年(1993)10月、第49世日完上人の代に日像菩薩第650遠忌、祐乗上人、道乗上人第700遠忌を記念して建立されました。
題目石
花崗岩製の石塔で、当山の開山、肥後阿闍梨日像上人による北陸道能州最初の法華開闢の印として、「開山日像菩薩」と刻まれております。
初めは境内に安置してありましたが、昔はこの石塔の欠片を水に入れて飲めば病気が治ると信じられており、 石塔を削る者が相次いだため、一時本堂内に隠すように安置してありました。
現在は境内入り口に安置しております。
庭園
江戸中期に造園されたと推定されている築山池泉式の庭園で、石川県の古庭園の1つに指定されております。
現在は枯山水に改められております。
築山には樹齢400年の灯台躑躅(ドウダンツツジ)や樹齢500年の羅漢槙(ラカンマキ)を始め、古木が立ち並んでおります。
毎年5月上旬にはツツジの花が見頃を迎え、庭園を鮮やかに彩ります。